嵐のあとには虹が出る…
おとぎ話は「そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしました」という言葉で終わります。その「いつまでも幸せに」へ、ほかの人には想像もつかないほどすんなりとたどり着く人もいれば…10匹のドラゴンと100の頭を持つ怪物を倒し、岩だらけの山を越え、深い森を抜け、持てるものすべてを差し出して、ようやくたどり着く人もいます。ベビーラップ RAINBOW BABY は、そんな人たちに捧げたいと思います。闘ってきたパパとママ、誰よりも長く待ち望んだ子どもたち、そして道の途中で失った子どもたちに。
RAINBOW BABY プロジェクトを通して、この幸せな結末にたどり着くために闘いながらも、幸せな結末はあると信じ続けている方々を、私たちは忘れていないと伝えたいのです。10月15日、妊娠・乳児喪失の追悼の日は、周りを見渡し、このおとぎ話の中で自分がどんな役割を担っているのかを考える良い機会です。あなたには人より力があって、ドラゴン退治を手伝えるかもしれません。誰かの話を聞く時間と勇気があるかもしれません。ベビーラップ Rainbow Baby をご自身用に、または贈り物にお求めの方はこちらから
この「虹」とともに、嵐が虹に変わった10のストーリーをお届けします <3 ご両親が私たちのために撮ってくださった、愛にあふれる写真とともに。心の扉を開いて、つらい体験を分かち合ってくださった素晴らしい女性たちに、心から感謝しています。読む人の心を癒してくれるストーリーです。話すことはセラピーでもあるので、ママたちご自身の癒しにもなりますように <3
レインボーママ(とひとりのパパ)と、その虹の赤ちゃんたちの本当の写真をご紹介します。嵐のあとに、虹が出ました…
美しいベビーラップ RAINBOW BABY はこちら:https://bit.ly/3lSadwX
Aleksandra Czajka-Sołek
秋でした。美しいポーランドの秋。娘はそのとき2歳を過ぎていて、そろそろ二人目を考えてもいい頃でした。娘は奇跡の子でした。私たちは子どもを授かれないはずだったからです。今回は計画して、うまくいきました…陽性の2本線。誰にも言いませんでした。確信が持てるまで、医師に確認してもらうまでは。診察では、血液検査で妊娠は確認できるものの、まだ早すぎるので2週間後にまた来てくださいとのこと。11月末までは出張が続きます。行けないなんて言えるはずもなく…。ところが、天気が崩れます。風邪、発熱、だるさ――出張は残りあと3日。木曜日から出血があり、金曜日は仕事帰りにそのまま病院へ…。人生で最悪の診察でした。誰にも何も言わず、予約はどのカレンダーにも書いていませんでした。そのあと、インフルエンザで2週間自宅で過ごしました。すべて終わっていました。13か月後、二人目の娘が生まれました。破水やトラブル、障がいもありましたが、それでも乗り越えました。娘はここにいます!素晴らしい子です…。そして1年経って、ようやく夫にだけ打ち明けました。ほかの誰にも言っていません…。



Aleksandra Pawlisiak
私たちの物語は、ほかの多くの人と同じように始まりました。恋をして、結婚して、私たちの小さな世界を満たしてくれる子どもを授かるのは、ごく自然なことに思えました。でも、自然はときに意地悪をするものです…。
子どもを持とうと決めて数か月後、ついに授かったと感じました!胸を高鳴らせて妊娠検査薬を使うと、結果は陰性。言葉を失いました。信じられませんでした。落ち着こう、冷静になろうとしましたが、直感がどうしても離れてくれません。私は妊娠している、そう感じたのです!血液検査を受けると、結果ははっきりしていました。私の直感は正しかったのです!すぐに小さくてかわいい靴を買い、検査結果のまわりに赤いペンで大きなハートを描いて夫に渡しました。本当に幸せでした!ところが、その日のうちに最初の気がかりな症状が現れました。病院に行くと、まだごく初期の妊娠なので様子を見るしかないと言われました。不安と希望を抱えながら待ちましたが、その後の健診で喜びが戻ってきました。胎芽はゆっくりながらも育っていて、ついに先生が画面で動く心臓を見せてくれたとき、私たちは胸をなでおろしました。もう大丈夫だと信じていました。けれど次の健診で、赤ちゃんが十分に育っておらず、心臓も本来のように動いていないことがわかりました。12月23日のことでした。先生は「クリスマスだから、奇跡だって起こるかもしれない」と、希望を捨てないようにと言ってくれました。でも、私たちには奇跡は起きませんでした…。12月27日、運命の日…。エコーの画面に映る、動かない像…。クリスマスの奇跡は起こらず、私たちの小さな子の心臓は止まってしまいました。入院先には主治医が来てくれました。少し話したあと、先生はこう言いました。「強くいてください…。覚えておいて、あなたはアルマジロのようなもの。何があっても揺らぎません」。退院した私はタトゥースタジオに向かいました。いちばん早く空いていた日に。アルマジロはずっと私と一緒です。
ほぼ1年後、私はもう一度妊娠検査薬を使いました。
最初の健診はクリスマスの少し前。そしてまた同じ言葉です。「まだ初期なので、様子を見ましょう」。12月27日、私たちは再び同じ待合室に座り、恐ろしいデジャヴを味わっていました。すべてが決まる瞬間を待っていたのです。今度はエコーの像は止まっていませんでした。画面の中で、心臓が力強く規則正しく動いていたのです。今、私たちのレインボーベビーの娘は2歳を過ぎ、毎日2人分のパワーで私たちを振り回しています :)




Hedwych Veeman
私はずっと、5人の子どもがほしいと思っていました。3人の子を育てるシングルマザーとして、パートナーがいなくても、もう1人赤ちゃんを迎えることにしました。3月初め、アメリカのベビーウェアリングイベント「WEAR」に参加していたときに妊娠検査で陽性が出て、まだ早いとわかってはいても、赤ちゃんのための最初のグッズを買ってしまいました。会場に並ぶベビー用品の数々に、どうしても我慢できなかったのです。
数週間後の健診で、エコーの像は本来の妊娠週数と合っていませんでした。婦人科の先生は励まそうとしてくれて、成長しているかどうか2週間後にもう一度診ることになりました。残念ながら、成長は見られませんでした。
体が自然に対処してくれることを願って、ほかの方法を話し合う前に少し時間をもらいました。何週間も過ぎましたが、何も起こりませんでした。お腹の中にもう命はないとわかっているのに、体だけが変化していく(お腹も胸も、まだ妊娠していると思い込んでいるようで…本当に妊婦に見えました)のを見るのは、本当につらいことでした。
Celineの誕生日の直前、先生はもう待ちすぎたと判断しました。「稽留流産」と呼ばれるものです。掻爬手術を受け、かなりの出血がありましたが、数日体が弱ったあと、また起き上がれるようになりました。
何よりつらかったのは、パートナーのいないまま、これをすべて1人で乗り越えなければならなかったことです。
それでも、数か月後にもう一度挑戦することをあきらめはしませんでした。
私のレインボーベビー、Feliceは、手術からちょうど1年後に生まれました(同じ日ではありませんが、同じ週でした)。
いない子のことを思う瞬間はこれからもずっとあるでしょう。でもFeliceは、すてきな笑顔でたくさんの涙を埋め合わせてくれます。
4人の元気な子どもに恵まれ、本当に幸せです。ほかのパパやママ(そしてこれから親になる方)にも、嵐のあとの虹が見えますように。




Anna Rożek
出産直前に入院しました。周産期に赤ちゃんを失うリスクは現実のもので、胎動をまったく感じられず、私たちの心に再びパニックが戻ってきました…。急いでエコー検査をしたところ異常はありませんでしたが、その後も胎動のモニタリングが続きました。1週間後、難産の末にマルティンカが生まれました。私たちが受け取れる最高のクリスマスプレゼントでした。
夢が叶い、心にぽっかり空いていた穴が埋まりました。息子を亡くしてから、ずっと抱えていた穴です。息子は私に天使のママになるという名誉をくれ、今も私たちを見守ってくれています。日々の暮らしの中に、その小さなしるしを見つけます。そしてマルティンカは私たちに笑顔を取り戻してくれました。私たちにとって、嵐のあとの虹のような存在です。この痛みと悲しみを乗り越え、娘の誕生という幸せを一緒に待つことができたのは、ふたりだったからこそ。支え合うことが力をくれたのだと思います。
なぜこのストーリーを書いたのか、今考えています…。息子を亡くしたあと、ネットで情報や支えを探しましたが、ほとんど見つかりませんでした。だから、私の話が誰かの理解の助けになり、乗り越えるためにもう一歩踏み出し、幸せな結末はありうると信じるきっかけになるなら、2019年12月19日に幸運にもこの世に迎えることができた虹の赤ちゃんについて書く意味があると思うのです。
アンナ(ナタルカ、バルトシュ、ミウォシュ、マルティンカのママ)




Bożena Warpas
ボジェナです。5人の子どものママです。娘が2人――パトリツィアとヴィクトリア――、天使がひとり、そして息子が2人――ピョートルシュとヴォイトゥシュ。この4年間、10月15日は私にとってとてもつらい日です。2017年、私の心は砕け、底なしの深淵に沈んでいくような気がしました…。
いつもと変わらない日でした。いえ、そうとも言えません。3月13日…私の名前の日で、母の命日でもありました。13、なんて不吉な数字でしょう。始まりは何気ない、少量の出血でした。最初の妊娠のときにもあったので、心配はしていませんでした。ひどくなってきたので夫に電話し、病院へ向かいました。予想していたとおり、流産が確認されました。経過観察のため入院するよう言われましたが、気持ちの上でとてもそこにいられる状態ではなく、自己責任で病院を出ました。感じていたのは、押しつぶされそうな暗闇だけでした。夜になりました。朝目が覚めたら、すべて夢だったらいいのにと願いました…。夢ではありませんでした。1週間、ただ泣いて過ごしました。心の面で大きな助けになったのは、かかりつけの婦人科医の診察でした。何が起きたのかを、医学的に、けれど思いやりを持って説明してくださり、また挑戦してもいいと背中を押してくれました。最初の周期ですぐに妊娠しました。妊娠経過は順調で、また女の子だと思っていました。最後のエコーで性別を聞いたら、なんと男の子だったのです。いつか息子が欲しい、ピョートルシュに会いたいと夢見ていました。叶いました!あの子には愛情を2倍注いだと思います。いくら見ていても見飽きませんでした。とても甘えん坊で、私は抱きしめるのが大好きでした。ほぼ毎日ベビーラップで抱っこしていました。ベビーラップは私の生活になくてはならないものになりました。おかげで抱っこ紐を使うほかのママたちと知り合い、外に出て人と関わるようになり、ただの子どもたちのママではなく、自分自身をもう一度見つけることができました。
ひとつの嵐のあと、私たちには2度太陽が昇りました。翌年、また妊娠検査薬の陽性に喜びました。もうひとりの虹の息子、ヴォイトゥシュが家族に加わったのです!息子が生後4か月のとき、ベビーウェアリングコンサルタントの資格講座を受けました。こうして抱っこは私の趣味であるだけでなく、ライフスタイルにもなりました。息子は今1歳で、毎日抱っこしています。
私たちの抱っこの冒険ができるだけ長く続きますように。そして、すべてのパパとママに嵐のあとの虹が訪れ、待ち望んだ赤ちゃんをその腕に抱けますように。



Emilia Burzyńska
エミリアです。夫のウカシュと一緒に、3人のちびっ子の親をしています。長女のユリアはもうすぐ5歳。最初から、年の近い子どもを2〜3人欲しいと思っていました。
最初の妊娠は順調だったので、ユリアが生まれて1年ちょっとで2度目の妊娠がわかったときは、すぐに家族に報告したいと思いました。妊娠7週のとき、職場で出血が始まりました。何かがおかしいと感じました。病院で、不安は現実になりました。数日後の再診で、医師は「妊娠初期にはよくあることで、次の妊娠に問題があるとは限りません」と安心させてくれました。
私たちには、ゆっくり休んで気持ちを落ち着ける時間が必要でした。2週間後、ユリアを週末に祖父母に預けて、ふたりでシュクラルスカ・ポレンバへ休みに行きました。まさに必要としていたものでした。そして…ちょうど9か月後、私たちの「虹」ミハリンカが生まれたのです。妊娠初期はまた失うのではないかととても不安でしたが、妊娠は順調で、娘は元気に生まれてきました。
それから2年も経たないうちに、息子のニコデムが生まれました。子どもたちはみんなベビーラップで抱っこしてきましたが、私がベビーウェアリングコンサルタントになるきっかけをくれたのはミハリナでした。今ではミハリンカはすっかりパパっ子――写真を見ればわかりますね!今では、ときどき抱っこ紐でおんぶできるのはパパだけです。
ユリア、ミハリナ、ニコデム――この3人が私たちの世界のすべてです!



Katarzyna Kustosz-Burnac
私のストーリーはシンプルに始まります…。結婚、子どもを持とうという決心、そしてほどなく妊娠検査薬に2本線。病院の予約。診察では、すべて順調に見えました。エコー検査をして…ぽっかりと黒い穴…途切れ途切れの言葉…心臓が動いていません…病院への紹介状…敗血症のリスク…服を着てください…。医師が書類を書き、私は母子手帳を握りしめたまま一言も話せず、涙がひとりでにこぼれていました…。夫はドアの外で待っていて、私が呼んだら、えんどう豆が手と足と頭のあるお豆さんになったのを見せるはずでした。私は診察室を出ます。医師は夫に、荷物をまとめて私を病院へ連れて行くように言いました。
私にとってこの喪失でいちばんつらかったのは、ほとんどの人がそれを軽く扱ったことです。まだ妊娠初期だったんでしょう(いいえ。私にとっては夢見た子どもです)。後になってからや出産のときじゃなくて、今でよかったと思わなきゃ(子どもが後でなく早く亡くなったことを喜べと言うの?)。大丈夫、また授かるよ、きっとうまくいく(私は傘をなくしたんじゃない。子どもを亡くしたの。この子を)。次の子ができたら忘れるよ(忘れていません。そのあと2人の子を授かっても)。
受け止めなければならない喪失のあと、再び妊娠するまでに長い時間がかかりました。ようやく待ち望んだ2本線が現れ、それとともに恐怖と不安の海がやってきました。少しでもいつもと違う症状に耳を澄ませ、胎動を数え、頻繁に通院し、エコーのたびに緊張しました。息をするのさえ怖かった。虹の息子は妊娠35週で生まれました。そして今度は赤ちゃんのことが心配でたまらなくなりました…。息子が生まれたあと、次の妊娠までまたとても長く待たなければなりませんでした。検査薬の2本線は奇跡でした。妊娠は週数で数えます。そして流産と早産を経験したあとは、こう数えるのです。13週までがんばろう――流産のリスクが60%下がる。24週までがんばろう――赤ちゃんの生存率は五分五分。32週までがんばろう――そうすれば90%の赤ちゃんはほぼ健康に生まれる…。36週と1日――正期産。赤ちゃんは予定どおりに来てくれました。正期産で、健康に生まれました。
今、私には素晴らしい子どもが2人います。神様と、素晴らしいお医者さんたちに感謝しています。そして、今日、空が真っ黒な雲に覆われているママたちに伝えたいです。嵐のあとに虹が出ることを、心から願っています…。そして、こうした経験をしたことのないママたちに伝えたいです。あなたは幸運です。ほかの人はいつもそうとは限りません。だから、友だちやいとこ、義理の姉妹、ご近所さんの不安を決して否定しないでください。その不安の裏に何が隠れているのか、あなたは知らないかもしれないのですから。



Magdalena Stwora
子どもを失うこと以上の痛みはありません。その子が数ミリでも、十数歳でも関係ありません。私たちは娘のユジャを、まだわずか2ミリのときに亡くしました。一緒にいられたのはたった1か月。2019年4月10日、2+1の家族がひとり増えると喜び、その1か月後の4月11日、最もつらい言葉を聞きました。「残念ですが、妊娠が進んでいません」。たくさん泣いたあと、夫と私は決めました――もう一度挑戦しよう、と。喪失から半年後、私たちに再び太陽が昇り、つらい待ち時間が始まりました。小さな命への不安、数えきれない思い、ときには相反する感情でいっぱいでした。楽な妊娠ではありませんでした。風邪の季節、いくつかの悪い知らせ、そして最後は春のパンデミックのさなか、ひとりでの出産。それでも2020年5月4日、嵐のあとに虹が出ました。いつもにこにこの、私たちの虹の息子が生まれたのです。待ちに待った弟、イェレミです。
たった8週間じゃない、妊娠していたのはたった1か月でしょう、と言う人もいるかもしれません。でもその1か月、私たちには子どもがいて、その子を思い描き、計画を立てていました。心から愛していたし、その愛はずっと心に残り続けると知っています。会えなかったこの子への想いが消えることはありません。でも、あの暗い日々がなければ、今イェレミは私たちのそばにいなかったこともわかっています。ユジャは、私たちの心を大きくして、虹の赤ちゃんを迎える準備をさせるためだけに来てくれたのかもしれません。わかりません。でも、私たちには天国に天使がいる、それだけは確かです。



Marta Zakrzewska
沈黙がいい知らせだったことはありません(母になった今、沈黙は必ず何かあったサインだとわかります)。そして黙っているのが医師なら、それは悪夢を意味します。人生で最悪の数秒間でした。そして聞こえたのは「残念ですが、心臓が動いていません」という言葉。金曜日のことでした。 そのあと何があったのか…正直、覚えていません。深い穴に、空っぽの中に落ちていきました…。時間だけが過ぎ、私は月曜日に病院で診断を確定するための診察を待っていました。 「まだ若いんだから、子どもを持つ時間はありますよ」と、医師は軽く言いました。 そしてまた深い穴へ。2006年12月19日、火曜日。何も覚えていません。麻酔。そのあとの恐ろしいほどの空虚感。人生で最悪のクリスマスでした。いつもクリスマスが大好きだった私が、その年はクリスマスを憎みました。その後、何年も――とあとでわかりました。



Joanna Szulc
ユゼフ――祈り続け、待ち続けた、私の二重の虹の赤ちゃん。もう授かることはないのかもしれないと思っていたころ、まったく思いがけず、正直なところ人生で最良とは言えないタイミングで生まれてきました。でも、私たちの心の中にはずっと前からいたのです。私たちやきょうだいを見るたびに見せてくれる、限りない幸せにあふれた笑顔――それこそが本当の幸せです。小さな2人の赤ちゃんを失った暗闇のあとに差し込んだ、私たちの光。本当に、明るくて、穏やかで、素晴らしい子です。この子のおかげで、私はいつも感謝の気持ちでいっぱいで、この子がくれる希望をほかの人へとつないでいます。


